ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

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義を見て為ざるは勇なきなり

僕は昔、道端に倒れている自転車の前を通り過ぎると、罪悪感に囚われたりした。
「自転車を起こさなければならない」と、強迫観念的に思いながら通り過ぎているからだ。だから、なるべく倒れている自転車を起こすよう努めていた。
この話を他人にすると、「偉いね」だとか、「真面目だね」と言われる。
僕からしたらそれはお門違いの反応だし、そういう反応をする人にとって、この話は、その人の人生において、さほど重要な(興味のない)テーマではないんだろうと思う。
僕は、ただただ、罰が怖いだけである。
こういう表現をすると、「あっち側」の人間みたいに思われるかもしれないが、これは僕の思想とか、宗教とか、信念とかとは無縁の、いわば条件反射的な反応というか、体質、まあ性格なのである。
「自転車を起こさなければならない(あるいはいけない)、なぜなら罰が怖いから」と、僕の心情を言語化するならこうなる。これは、カントの定言命法的ではなく、条件付きの、仮言命法的であると言える。
自分が数秒先に通るルートに、倒れている自転車を見つける。見つけた瞬間から、僕の試練が始まる。僕の今までやってきた行いが、この場で試されるように、僕の頭の中で、横たわっている自転車の存在が大きくなってくる。僕は自転車に一瞥をくれる。そして、さりげなく周りを確認する。誰か人がいないか、あるいは見られていないか、思う存分自転車と対峙してよいのか、安心して対峙できる条件が整のっているのかを判断する。誰も周りにいない場合、あるいはなにか、自分の世界に入り込んで、こちらに気が向かない人のみの場合、僕も自分の世界に入り、安心して自転車に接することができる。そして、自転車を起こす。そして起こした自転車を背に、安堵感に包まれながら先を歩く。
これが、誰か人が見ているな、と思われる状況の時がある。こちらの方が割合的に多い気がする。この場合、にわかに緊張感が出てくるし、周りの目を気にしなかった時には必要とならなかった、「勇気」が必要不可欠となる。
この「勇気」は、自意識過剰な人ほど、必要になると思う。
まず人からどのように思われているかを想像する時のエビデンス(根拠)になるのは、「自分がどう思うか」に依拠すると思う。他人の頭の中はどうしたって覗けないので、自分を頼りにするしかない。だから、自分がこう思うんだから、他人もこう思っているはずだ、という理屈をどうしても成立さてしまう。これが厄介というか、そうするしか術がないのだからしかたがない。
その思いが強ければ強いほど、そして羞恥が強ければ強いほど、多大な勇気が必要となるのだ。
僕は恥ずかしながら、自意識も羞恥心も溢れるくらい持ち併せているので、多大な勇気が必要となってしまう。だから人目を感じながらの自転車起こし作業は決死の覚悟の行いなのだ。だから、それほどまでに重大な案件に仕上げてしまった行ないを、「しなかった(できなかった、ではない)」となると、罪悪も芽生えるというものである。
この「勇気」というのは、色々な場面で必要となる。
お年寄りに席を譲る行為。
道端のゴミを拾う行為。
ご飯を食べる時、掌を合わせて、いただきますのポーズをとる行為。など。
ただ、忘れてはならないのが、これらの行為は全て、「人目を気にする」という条件つきのもとで行わなければならない。また、「勇気」というのは大変なエネルギーを要する。このことは、「怠慢」の言葉を導き出す。「勇気」を出すということは、「怠慢」から脱却するということでもある。「怠慢」は、人間が意思を持って行動しようした時点から生まれ、そこを起点とし、僕達は動こうとする。だからまず、この「怠慢」から、まるで眠い目を擦りながら布団から出るような気持ちで、そこから脱却しなければならない。そこから「目的」を達成すべく、場合によっては、「勇気」を用いて完遂する、そういう流れだ。
とにもかくにも、「しなければならない」と分かっているのに、「しない」というのは、ただただ「勇気」が足りないということだ。これは、今回のブログタイトル「義を見て為ざるは勇なきなり」のことわざの意味でもある。僕はこのことわざを携えて生きていければと思っていたが、この記事の冒頭では、「僕は昔~」から書き始めている。そう、僕は今ではさほど、道端で倒れている自転車を起こしたりはしないし、起こさなくても罪悪を感じることはなくなってしまった。恐らく、通りすぎる度に罪悪を感じる生き方は、疲れるということだろう。だから、僕はほどよく自分を肯定的に解釈し、例えば、倒した本人が起こすべきだ、とか、あの倒れているままの状態が正しい自転車の置き方なんだ、という風に、できなかった自分を納得させている。というか、もはやそういう風に考えること自体しなくなり、「あー風が強いから倒れちゃってるんだね」と思い、そのまま先へ進むという行動の取り方のほうが数年前から多くなっている気がする。よく分からないが、これが大人になっていくということなんだろうか。渋谷でのハロウィン騒ぎのニュースを冷ややかに見ながら、そんなことを思った。