ハイハイで散歩中

面白いと思ったものをただただ紹介したり、またはただの雑記に成り果てそうです。

ハイハイで散歩中

ハリガネムシ-僕らは宿主か-

僕は昔、道端で、元気よく蠢(うごめ)いている、もしくは苦しくてのたうち回っているとも見てとれる、ミミズのような生物に遭遇した。そしてそのすぐ近くに、カマキリの死骸があった。発見当時は、その因果関係を知らなかったため、独立した問題だろうと、そのエキセントリックな奇妙な動き(この生物は、「動き」そのものが容姿のような、「動き」によってのみ認識されるようなーあくまで人間にとってーそんな印象を持った)をする生物に目を奪われ、カマキリをなおざりにしてしまっていた。
その蠢く生物を暫く見ていると、地球外生命体のような、SF的ななにかを連想させたし、正直、不気味で、失礼な話だが、気色悪かった。
暫くすると、動きを止め、そのまま恒久的に動かないのかと思わせる静止っぷりを続けた。僕の知人が、生死の確認のため水をかけると、息を吹き返したように再び蠢き始めた。しかし、そのまま放置しておくと、また静止してしまった。さらにそのまま放置し、誰かが靴で擦り付け、身体を引き裂いて、排水溝に流した。
そして、僕らの燃え上がっていた興味も鎮火した。
それが、ハリガネムシだった。

その出来事のあと、すぐに知人が、「ミミズ カマキリ 死」と、ネット検索してその生物に辿り着いた。

線形動物ハリガネムシ綱(線形虫綱)ハリガネムシ目に属する生物の総称

と、角ばった表現がウィキペディアさんに載っている。
この「類線形動物門」、いわゆる寄生動物のことである。主に昆虫類に寄生する。その中でも有名なのが、「カマキリ」である。
ハリガネムシはまず、水中で生まれる。孵化した幼生は、濾過摂食者(発達した触手や、鰓(えら)を濾しとるように使用して餌を摂る者のこと、wikiさんで学びました)に取り込まれる。やがて取り込んだ水生昆虫が羽化し陸に上がる。その後、その羽化した生物が、陸上生物のカマキリなどに捕らえられ、そのままハリガネムシはそのカマキリに寄生する。かくしてカマキリはハリガネムシの宿主となる。
2〜3ヶ月で成長し、成虫になったハリガネムシは、カマキリの脳になんらかのタンパク質を注入し、洗脳する。そして、水辺まで移動させ、飛び込ませる。そして水中で宿主の尻から飛び出す。その後、オスかメスと出会い交尾し、また卵を生む。このような流れ、サイクルになっている。
僕が道端で見た光景は、なんらかのアクシデントにより、水辺までの行きしな、カマキリから飛び出してしまったのだろう。水生生物であるハリガネムシは、陸上だと生きられないため、やがて動きを止めてしまった。あんなに激しく蠕動(ぜんどう)していたことに関しては、やはり苦しくてのたうち回って(人間側の解釈)いたという表現が相応しいのであろうか。
今振り返ると、あの時の死骸のカマキリの表情が哀れに思われてくる。
なんとなく水辺に移動しようと動きだし、その道中で自身の体内から、突然異なる生物が突き破って出現する。そしてわけも分からず一生を終える。自分はなんのために生まれてきたのか。そんなことを考える暇もなく、終える。
というのはもちろん、人間側(というより僕の)の解釈だ。人間以外の動物が自己について思考するというのは考えにくい(いや、考えているのかもしれない。しかしそれは、人間のようにではなく、例えばカマキリ的に考える、という発想をしてもいいのではないか。白状するとこれは、村上春樹の小説「女のいない男たち」から影響を受けました)。
だが僕は、人間以外の動物には、自己のことなど考えないでいてほしい。ただ本能的に生きて行ってほしい。人間だけが思考し、推論し、あれこれ思いを巡らし、世界に意味があると思っていたい、そういう愚か者は人間だけでいい。
本当は世界に意味などないんだと、他の動物を見て思いたい。それが時として逃げ道になるし、拠り所となる。

そして僕がもう一つ、ハリガネムシ関連で思うことは、本記事サブタイトルにもある、「僕らは宿主か」についてだ。
例えば僕ら人間を、ハリガネムシに寄生されたカマキリだと仮定する。僕らは普通に日常を過ごしている。朝起きたり、どこかへ出かけたり、誰かと話したり、そういう日常を自分の意志で行っていると思い込んでいる。だがこれが、川辺に飛び込むカマキリの長い助走たとしたらどうだろう。自分で決定していると思い込んでいる物事は全て、寄生生物によってコントロールされているのだとしたら。
かなり幼稚な下らない発想だと我ながら思うが、ただ、これを否定する術を僕らは持ち合せてはいない。
ハリガネムシのような寄生生物が現に存在している以上、メタ的に考えれば、人間にも当てはめて考えることはできるのではないだろうか。
これが人間の性質だ。あれこれ馬鹿なことを考える。下らないことを考える。
でも僕はそれでいいと思っている。下らなくて、愚かで(広義の意味での世界から見たちっぽけな人間という位置づけの意味で)いいと思っている。
時としてそれが救いになる。
なんか先日の記事もこんな終わり方してたな。こんな締めを想像して書き始めたつもりじゃないんだけどな。
了です。