1歩1歩、確かめるように。
読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる
         

隣の芝生が青く見えたところで、気にしなければいい

日常

今回の記事も、電車周りのマナーに関する内容になってしまうのは、やはり電車内及び同周辺というのは、人間の本質のようなものが露呈しやすい(そしてそれを目撃しやすい)環境となっているからなのだろうか。
他者に見られている(公共性)にも関わらず、我欲を優先させてしまう、そんな欲望の家畜となる醜態を露呈してしまう発動トラップというか、ある種試練のような関門がいくつも散りばめられている。
そしてそれを他者が目撃できる環境。そのような公共の場であるがゆえに、僕もこんなに感じる機会があるのだろう。

先日、駅のホームで電車を待っていたら、還暦程度の男性が僕の後ろに並んでいた。
そして電車がホームに入ってきて、電車が僕らの立ち位置の前で止まると、その後ろの男性が何かに夢中になるようにズカズカと僕を抜かし、ドアの前に立ち、開かれたドアの先へ勢いよく踏み出し、そして勢いよく空いている座席にどかっと腰を下ろした。
僕はその一連の間、苛立っていた。
これは多分電車あるあるだろう。
でも一体、僕は何に対して、そしてその何かにどのような理由で苛立ってしまったのだろうか。
順番抜かしをされたからだろうか。
仮にそうだとして、では何故順番抜かしをされると苛立つのか。
それは僕が規則正しく暗黙のマナーに沿って並んでいるからだろう。
いわば僕の労働が徒労に終わったことの証明になるということだ。
だが、なにか腑に落ちない。
そのような理屈ではなく、もっと皮膚感覚での苛立ちのように思える。
なにか醜い物を見て、それが伝染してしまったような胸糞悪さのようなもの。
僕の苛立ちのスイッチが入ったのは、僕を順番抜かししたオジサンの横顔、そして後ろ姿を見た時点からだと思う。
なんというかもうそのオジサンが、小賢しく図太い、醜態な猿のように見えてしまった。
勿論、時と場所、いわゆるタイミングが違えば、全く違った印象に見えたかもしれない。
だが、その時は、「規則正しく並んでいた僕を抜かしたオジサン」というフィルターを通してそのオジサンを見る目に僕はなっていたのであり、ということは、そのオジサン自体がそう変化したのではなく、僕の目がそう変化したということである。
今まで再三ブログで書いていることだが、初めから対象(客観世界)には何も付与されていない。意味も価値も美醜もなにも。付与させるのは僕ら主観の側だ。
だから変化した僕が、そのオジサンに醜さを付与したということだ。
では何に対して苛立ったのか。
恐らく、そのオジサンの醜さに対してだろう。
そして、僕の目が醜くい物を見る目になっていたということは、僕のことを醜く思う人もいたかもしれない。人の感情は時に伝染する。

また、話を少し拡げると、物凄く楽しそうに2人だけの世界に入り込んでいるカップルを見かけると、苛立つことがある。
これを分解して考察すると、カップルを見ている僕は物凄く冷静になっている。だから冷静になっている僕は、冷ややかな目でその対象物を見てしまう。
その時の僕の心理状態をもう少し具体的に思い返してみると、その瞬間は、そのカップルより、僕の方、僕の現状が不幸なのだと思ってしまったのかもしれない。
僕はこう分析する。
人は常に、無意識に自分と他者を比較していて、その中でも比較する優先順位が高い(敏感になる)のが、「幸福度」なのではないだろうか。
そもそも「幸福」の「幸」の字。ご存知の方も多いかもしれないが、いわゆる「手枷(てかせ)」の象形文字と言われている。
極刑だと思っていたら、「手枷」の刑だけで済んだ、ああ生きられるんだ、よかった、幸せだ。という意味であるらしい。つまり死ぬかと思っていたら、死なずに済んだ、ラッキーだ、ということである。これをこう解釈することもできる。
死ぬよりは、手枷の方が幸福だ。つまり、現状(手枷)より、不幸な状態(極刑)がある。現状(手枷)より下の位置(極刑)がある。下の極刑の位置から見れば、現状の手枷は上である。ゆえに、手枷は幸福である。
このことから、幸福というのは、なにかとの比較によって認識しえるものだという考え方もできると思う。つまり、「幸福」を現状より高い位置に設定し、そこに上って手に入れようとするのではなく、現状より下に「不幸」を設定し、その下にある対象と比較、または「差異」によって、今の現状を「幸福」だと認識したり、気付いたりするということだ。
したがって、先程のカップルの例で言えば、僕の現状より、そのカップルの現状のほうが上に位置すると判断し、したがって僕の現状が下になる。そのような差異・比較から僕は自分が「不幸」だと思ってしまったんだと思う。
そして、「不幸」の色に染まった僕は、そこから憎悪を生み出してしまい、その目でカップルを見てしまっていたんではないだろうか。そしてその憎悪の感覚に触れている僕は不快な気持ちになる。つまり皮膚感覚で不快さを味わったということだ。

また人間は、「幸福」より「不幸」を実感してしまう方が多いのではないかと思う。
人間は自分を常に「棚上げ」する生き物だ。自分の現状を棚上げしている。
例えば普段生活していて、街を歩く時など、自分を見ながら歩いている人はいない。ほとんどの人が前を、つまり客観世界(対象世界)を見ながら歩いている。そして隣の芝生が青く見えるという秀逸なことわざがあるように、人間は、自分に無いものへの関心が非常に強い。そいうものに目がいってしまう。そしてそれらを自分より上に位置づけし、自分の現状を「不幸」にする。本当は自分より下の現状などいくらでも溢れているのに。

だから、「不幸」を感じたくなければ、他人と比較しないことだと思う。
他人と比較するから、「幸福」だとか「不幸」という概念が生まれるのだ。
差異の中でしか生まれない概念。
そもそも他人と比較する意味なんてない。
元々特殊な唯一無二の個人の集まりだ。違って当たり前なのだ。
なのに同じだと思い込んで接しようとするから、比較しようとするから、当然違って当たり前の結果(そもそも比較しようとしている物差しの形や長さが最初から違う)に、いちいちショックを受ける。
自分と他者は違う生き物だ。
そう思うと、少し楽に過ごせると思う。

了です。