ハイハイで散歩中

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実存は本質に先立つ-それらを言葉を使って自覚することの重要性

私は他人にとってキモチワルい。
だからうまいこと、行ってない。
それは、とても分かりやすい公式だった。

 これは、家入一馬(2014年東京都知事選に立候補し、インターネットを利用し支持者を集めた若手企業家。この時は舛添要一氏が当選した)さんが発案し出版された、様々な方からの絶望的名言を集めた「絶望手帖」(青幻舎発行)からの引用。
因みにこの名言は、小野美由紀(ライター)さんの著書「傷口から人生。メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった」(幻冬舎)からの抜粋。

僕にはこの文章が非常にぐっときた。とてもシンプルに的を射ていて、もしかしたらこの人類の真理を言い得ているのではないかと思った。

僕自身、思い当たる節がある。

地元のよく行くコンビニの店員に関する話しなのだが、こちらの店員さん、恐らく中国人のはずで(カタコトの中国人的日本語に、中国人風情の容姿などから)、とても一生懸命で殊勝に働いている。
ただ、まだ入ったばかりなのか少々覚束ない手つきや対応で、中々スムーズに仕事を処理できない。
しかし、丁寧さや、とてもハートフルな対応でそれらも許容の範囲とさせる。
その対応は、虚を衝くような、ある種のギャップ萌え的な対応を提供してくれる。
お弁当を温めてもらって、レジ袋にお弁当を入れて僕に手渡す際、
「とてもとても熱くなってるから気をつけてお持ちください。」そして、大丈夫かな、熱くないかな、と呟きながらお弁当の底を自分でさわり、「うん、熱いけど気をつけて」と言って、満面の、屈託ない笑みを添えて(とても自然に、なんにも世界に対して疑ってないような純朴さで)渡してくれる。
僕はその時笑いそうになったけど、そこには手放しでは笑えない、その店員を店員たらしめているある独特の要素が、店員の本質より先立って現れている(いやもしかしたら、その要素こそが彼の本質なのかもしれない。ここら辺でよそう。勝手なことを言い過ぎている)。
その要素を一言で表すなら、

なんかべとべとしている感じがする

といったところであろうか。
サバの味噌煮の汁を被っているような、または、牛乳を頭から被ってしまったような、そんなべとつき感。
彼のなにがそのような感じを与えるのかは分からない。丁度よい、こげ茶色の肌と、肉肉しいボディが、サーターアンダギーを想起させているのだろうか。
とにかく、感覚的に、反射的に体が退いてしまいそうになる。だが僕はそれを無き者にしようと理性を働かせ、彼のハートフルな言動で頭を満たし、面白い奴だったな。と、正直偽善で自分を欺いているところがある。
だが、これは第一印象の段階なのだ。
恐らく、彼と僕がこれから友達になり親しくなるにつれて、第二、第三印象と変化していけば、彼の第一印象の主な印象だった、なんだかべとべとしている感じ、は理性など働かせることなく感覚的に消滅し、第二、第三印象に上書きされていくのだろう。
そのようなある種、伸び代が残されていることは救いのような気がする。

だが、この世界には第一印象を最後に、その後生涯出会わなくなる人が山程いる。
だからやっぱり第一印象は重要だ。
第一印象が如実に重要になる場合として、例えばティッシュ配りなんかがある。たまに見かけるたびに思うのが、ティッシュ配りをしている浮浪者(というより浮浪者風情の人)はすぐさま仕事を変えた方がいいと思う。とても相性がよくない仕事だろう。

本来の意味、フランスの哲学者サルトルの「実存主義」のそれとは異なるだろうがこれは、
実存は本質に先立つ」、ということにはならないだろうか。
実存(その場の印象、つまり第一印象)、本質(第二、第三印象)。
言葉にすれば当たり前のようだが、日常生活において中々頭に浮かばないのではないだろうか。

また、僕自身、実存が先立って敬遠されたことがある。
それは風邪を引いていて、電車内で咳込んだ時。その時に冒頭の名言が身に染みた。
咳をした途端、隣にいた女性が苦虫を噛み潰した表情をし、少し離れ、そしてカバンからわざとらしくマスクを取り出し装着した。
その時僕はその人に殺意が芽生えたし、なんて人間というのは薄情なんだろうと、なにかを諦めた感情にもなった。
ただ、僕もそのマスク女性とほぼ同じようなことをしたことがあるので、その人を非難することはできない。人間というものはそういう生き物なのだ。
ニュースで取り上げる震災や犯罪事件などを見て、「あれはしょうがないよね。かわいそうだけど」、などと、達観したような口調で語っていても、いざ自分の身内が同じような目に遭った時は、その出来事の不条理性を前にし、事実を受け入れることが困難になるだろう。
結局、いくら対岸の火事を見て理性的に見解を述べていても、自分に火の粉が降ってきたら理性もクソもなく、反射的にそれを振り払うのに必死になるということだ。
実存は本質に先立つ。
これは去年の、オックスフォード辞書が選んだ2016年最も注目された言葉(日本でいう流行語大賞)の、「post-truth(ポスト真実)」にも敷衍させることができるのではないかと思う。
真実が重要視されず、出回った誤情報を鵜のみにして感情的に行動する。アメリカ大統領選や、イギリスのEU離脱の際にも見られた現象。
これは、「実存(最初の情報)は本質(真実)に先立つ」と言い換えることができるのではないだろうか。
感情で行動してしまう。それはある種のお祭り的なワイワイ騒ぎを連想させる。そしてそれはインターネット、SNSのシステムとマッチングして、一気に拡散、膨れ上がり、そして時には炎上もする。
文明の発達につれて、人間の醜悪な部分が露呈してくる。
それは嫌なことでもあるが、僕は、元々人間はそういう生き物だと自覚することはとても重要なことだとも思う。素地を知らないと発展はできない。また、自覚することも人間特有の理性が為せる技だし、そこからまた理性でカバーできる。
人間は愚かだ。これを自覚する。そこから愚かなりに試行錯誤する。
こういうことを言葉に起こし、自覚することで、冒頭の絶望名言のようにどこか救われる気がする。
ー思いは言葉に。
どこかで見たフレーズを引用し、締めくくりとする。
了です。