1歩1歩、確かめるように。
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人は生存しているだけで必ずある「立場」を取ってしまう、という話

日常

人は生存しているだけで、必然的にある立場を取っている。

・例えば、赤ん坊であれば、一人ではなにもできないので、他者からの援助を必要とし、そして、いつでも泣くことを許されている。そのような赤ん坊の立場。

・裕福な家庭の中で育ち、要求すればなにもかもを自分のものにできてしまったり、なにをやっても叱られない、そんな小学生の子供の立場。

・貧乏な家庭の中で育ち、極力自分のことは自分で責任を持ち、また家庭を支えるために必死でバイトし、なおかつ、学業にも力を入れている、そんな苦労人の高校生の立場。

また、細かいことでいえば、
・食事中、平気でくちゃくちゃ音を立てながら食事できてしまう立場。
・全く時間に執着せず、いつでも自分のペースを守り、待ち合わせ時間に遅れても一言も謝罪の言葉を述べない立場。

とまあ、ありとあらゆるもの・行為の末尾に「~という立場」と付けさえすればそれは全て「立場化」されるといっても過言でなない。
そこで僕が示したいことは、人は大前提、なにかしらの「立場」という領域の中から、またはその「立場」という土台の上に立ち、その上で、物事を判断したり、行動したりしている、ということだ。
そして、立場というのはある種、アイデンティティや、プライド誇示の根拠となりうる場所でもある。
そのような場所を、生存し続けていくと、時として守らなければならない局面もやってくる。
例えば、「職業」を立場として捉えた場合。
このままAI技術が進み、雑務雑用を主として働いていた人々に変わって、AIロボットがその役割を担ってしまう日が訪れた場合、その働いている人々はAIロボット、またはその新時代の波に対して、否定的な感情を抱いたり、またそのような意見を述べたり、同意見の人に賛同したりする人も少なからずいるのだろうと思う。
また「趣味」を立場として捉えた場合。
「紙の本」好きな人が、電子書籍に対して様々な意見を述べることがある。「紙を繰る感じがいい」とか、「あと何ページ残っているのか視覚的にすぐ分かる」、だとか、「リアル特有の『物』としての価値がある」、などなど。
まあ、この意見というのは電子書籍が登場して、初めて意識された紙の本の要素であり、それが電子書籍によって「価値化」されたといってもよいと思う。つまり他のものと比較したことで生まれた価値、ということで、そういった意味では電子書籍の登場は「紙の本」側にしてみればそれなりに意味のあるものだとも思う。
話が少し逸れたが、この「紙の本」好きな人が、電子書籍側に対して色々利便性を説いたり、価値の意見を述べるのは、そもそも「紙の本が好き」という立場にいて、このまま電子書籍が世界を占領してしまうと、「紙の本」の立場、つまり「自分の趣味的な生存の立場」が危ぶまれるから、そのような意見を述べるに至っているということもあると思う。

これは、清水富美加騒動に関するワイドショーなどを観ていても、上記のような現象として捉えることができるのではないかと思う。
あるワイドショー番組で、とある女子高生に、「(清水富美加が、まだ仕事が残っているのに突然辞めてしまうという流れがあった上で)この一連の騒動についてどう思うか」という質問をしたところ、「逃げてもいいのではないか。清水さんもいっぱいいっぱいだったと思う。絶対責任は感じていると思うが、その中で、『助けて』、と言えたことは勇気ある行動だと思う」という発言をしていた。
これは、まず、その女子高生も清水富美加と同じで年齢が若いという立場がある。そして恐らくその彼女自身も同じような状況であったなら「逃げる」可能性があるということで、そして元々彼女はそのような考えの立場に身を置いていたということであると思う。だから自分と同じような立場と認識して、清水富美加を擁護するような発言をしたのではないかと思う。
もしくは、単純に清水富美加のことが好きだったという可能性もある。好きだから、無条件に清水富美加を肯定する、または妄信する、そのようなロジックもこの世界では普く存在すると思う。
また別の出演者に話が向けられたところ、その出演者は清水富美加に元々好感を抱いており、「まだTwitterや、告白本でしか情報が確認できない」、「本人の口からなにも聞けてない」といった発言をしており、その出演者がイメージする清水富美加像を捨てきれないでいるように見える。これは、その出演者が、元々「清水富美加に好感を抱いている立場」からの発言である。このような例は、極端な話、そのイメージを壊したくないと現実逃避し、自分の都合のいいように解釈してしまう恐れもある(極端な話です)。
だが、そのまま妄信しない例もある。
その番組の、他の女性出演者に意見を聞いたところ、告白本を出すまでは清水富美加を擁護するような考えだったのが、告白本を出したのを境に、彼女に疑念が浮上したということだった。これはつまり、それまでは清水富美加を擁護する立場にいたのだが、告白本を出した瞬間、彼女の中の「別の立場」、または「上位の立場」が顔を出した(またはそれまでの立場を上回った)のではないか。つまり、告白本に対する彼女の別の立場、または信念(彼女の基軸となる根本の立場)と反発するなにかが、その告白本出版という事実になにかあったのではないか、と考えることもできる。

僕がごちゃごちゃ書いてきたわけだが、つまりなにを言いたいかといえば、人はなにか意見を言ったり、判断をしたりする際、そのことをよく考えて自分では行っているつもりでも、無意識に自分に都合のいい意見しか述べていなかったり、自分に都合のいい意見にしか同意していない、そして、自分に都合のいい解釈をして自分を安心させていることがあるのではないか、ということだ。
では、本当の正しい意見を言ったり、判断したりするためには、立場を全て無くすしかないのだろうか。
僕が思うに、全ての立場を無くすのは不可能なように思われる。
冒頭にも書いたが、語尾に「~の立場」と付ければなんだって「立場化」させてしまうことが可能なので、生存しているだけでも、「生存している立場」というように、また全ての立場を無くしたとしても(そんなことは不可能なように思うが)、「立場を無くした立場」というふうに、必ずある立場を取ってしまう。
だから、立ち場を無くすだけではなく、新たに立場を増やすこともしていけばよいのではないだろうか。
立場を増やしていけば、色々な価値観を手に入れることができ、その分色々な選択肢が増え、より柔軟な思考プロセスを経ることができると思う。
この先、どんどん時代は変わる。その度に今いる立場を守ろうとして新しい時代と闘うのではなく、その新しい立場も手に入れて、どんどん前進していけばよいのではないだろうか。

とりあえずまず、「自分がある土台の上に立っていること、ある立場を既に取っていることを自覚する」という立場を手に入れることをお勧めしたい。

てへぺろです。