ハイハイで散歩中

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特段オザケンに限った話ではないし、藤井隆の「ナンダカンダ」でも構わないが、なにかを好きになる時、人は既になにかを妄信しているという話

小沢健二の新曲リリースや、メディアへの露出などのニュースを聞いて、僕も多少は心が動いたりする。
だからと言って、僕は20年程前の、「渋谷系」という言葉で括られ、甘いルックス、インテリ、人を食ったような態度などの要素も相まって人気を博し、「王子様」のレッテルを貼られていた、いわゆるアイドル、「オザケン」ブームの渦中にはいなかった。

僕はその当時、小学校に上がるか上がらないかの時期に属していて、その頃の記憶はもはや曖昧だが、オザケンがテレビに出演していて、色々もてはやされていたのは何故か脳裏に焼き付いている。
それは、同時期の記憶として、僕の母親がオザケンが好きだったということと、その母がオザケンみたいな男性がまさしくカッコイイ男性の象徴のように僕にそれとなくアピールしていた、その断片的な記憶の焼き付けが関係しているように僕は推測している。
だから僕は母親の洗脳のおかげで、生まれてこの方、オザケンに否定的な感情を抱いたことはない。
その一方で、とりわけオザケンを神格化して盲信するほどのファンであったこともない。
ただ、それに準ずる距離の取り方はしていて、盲信するほどではないにしろ、きっと良い曲なんだろうな。と、肯定的に捉えよう、理解しようと努める思考を必ず持つことが、オザケンと対峙する時の大前提となっているように思う。
僕がもし、母親の洗礼を受けていなかったら、この前のミュージックステーションで登場したオザケンを見ても、「誰だこの学者みたいな人は。あー、今夜はブギーバックの人か」、となるだけで、そのままスルーしてしまっていただろうな、と考えてしまう。

僕の同世代の友人で、オザケンのことを話せる友人はほとんどいない。
以前、友人になにかの拍子にオザケンの話しをしたら、誰それ?と言われ、そうか、そういうこともそりゃあるよな、と思ったのを記憶している。
僕だって母親の言動を耳にしていなかったら、きっと友人と同じ立場になっていたかもしれない。

正直、オザケンのなにが良いかと聞かれても、答えることを躊躇してしまう。

僕は今、藤井隆の「ナンダカンダ」にハマっているのだが、どこが良いと聞かれれば、「とにかく元気が出る」と、誠に抽象的な答えだが、自信を持って即レスできる。
ただ、オザケンに関しては、僕は好きだが、それを他人に説明することがうまくできそうにない。
「歌詞がいいんだよね」、とか一般論的なことを言えば、相手はなにか説得力を勝手に感じて受け止めてくれるかもしれないし、その場をしのぐことはできるかもしれないが、僕自身、相手を説得できるほどの自信を持てないでいる。
勿論、僕は歌詞も良いと思っている。だが、それを相手が良いと感じてもらえるか自信がなく、これはもう趣味の領域だからなー。となにか諦めざるをえない感覚になる。
これは、好きなアーティストの新曲を聴いた時、一聴しただけだと、「ん?」と思ってしまっても、そのアーティストが好きだという前提が形成されているがゆえ、きっとこの新曲も良い曲なんだ、と思い込もうとし、そしてヘビロテしている内、実際良い曲だと思うようになる、という構造と似ていると思う(もしかしたらこの経験は自分だけかもしれないが)。
僕は最初に、母親にオザケンは良いという前提を幼い頃に形作られ、その前提を今のところ信用してオザケンと向き合っている。だから、「ん?」と思っても、きっと良い曲なんだと思って聴くようにしている。だからそのような聴き方をしている内に、オザケンの曲が耳に馴れて、だんだん良さが分かってきている。これはある種洗脳が深まってきていると言ってもいいのかもしれない。

これは音楽の話に限らず、趣味趣向の話全般に言えることだと思うが、なにかを好きになる、あるいは興味を持ったり、それを受け入れる段階の時には、その前段階のなにかを既に信用、あるいは洗脳、もしくは影響を受けていて、その上で、次の段階を受け入れている、ということがあると思う。

分かりやすい話で言えば、友人が、ハマっているアーティストを自分に勧めてきた場合、そのアーティスト云々、その勧めてくれた友人のセンスを既に信用していたならば、そのアーティストを受け入れる態勢が自分に既にできているということがあると思う。
僕の場合で言えば、母親のセンスをなぜか無条件に盲信していたということになるだろう。

ただ、ここまで書いてきて、僕が何故、藤井隆の「ナンダカンダ」の良いところは言えるのに、オザケンの良さは言えずに躊躇してしまうのか、について新たに大きく2つのことに気づいた。
1つ目は、まず、オザケンを好きになったのが、母親経由であるということ。いわゆる家庭環境的要因である。
この家庭環境的要因を、別の家庭環境で育った友人に理解してもらえることは無理なのではないかと無意識に思ってしまっていたのではないか。
そして、藤井隆の方だが、これは僕は自発的に「良い」、と思ったのだが、これは僕らの世代ならみんな良いと思うのではないか、いや、僕らの世代だけではなく、大衆全てに受けいれられるのではないかと無意識に信じ込んでいたということが原因で、つまり言うなれば、世代的要因、大衆的要因により、藤井隆の良さを言うことができたのではないだろうか。
僕は勝手に、理解してもらえる相手を自分と同世代の友人と設定していて、考えてみれば、オザケンは僕のドンピシャの世代ではなく、藤井隆は僕と同世代の人はわりと共有して消費していた人物であった。

そして2つ目。僕はオザケンで言えば、彼はアーティストなので楽曲面の良さを伝えようと、少々難しく勝手に考えていた。
他方藤井隆は芸人で、どこかアーティストという敷居の高さから解放された場所にいて、その芸人藤井隆が歌う(僕が藤井隆を好きという前提があった上で)「ナンダカンダ」だらこそ、シンプルに、「とにかく元気が出る」という答えが出せるようにも思う。
つまり、僕はオザケンの楽曲ばかりに注目していて、オザケン本人のことを考えていなかった。
そう、僕の母親経由で始まったオザケン好きも、僕なりに興味を持って接し続けた結果、今の所は、オザケンという人間自身に1番魅力を感じているのだ。
そして、その上で、オザケンの良さを答えるなら(これなら世代的要因を凌駕できるかもしれない)、「音楽ととても真摯に向き合い、取り組み、なおかつ全力でパフォーマンスし、そして、ひたむきに生きているように見える、つまり、とても真摯的な人間である」ということだ。
僕はオザケンの生き様に魅了されている。
だから僕はオザケンの言葉に、楽曲に、耳を傾けるし、彼を理解しようと努めるのかもしれない。
このことは藤井隆にも勿論言えるのだが。

最後に、僕がオザケンの作品で1番好きなものは、2010年に行われたライブを収録した、「我ら、時」というライブアルバムで、曲と曲の合間に朗読が入るという僕には画期的なアルバムに思うのだが、これが、すごくいい。興味のある方はぜひ聴いていただきたい。

そして、藤井隆の「ナンダカンダ」。元気でるなー。特にMVがいい。ピコ太郎の時みたいにジャスティンにハマったりしないかな。

てへぺろです。